旧弘前偕行社
弘前偕行社の上棟式(堀江家 蔵) 弘前偕行社の上棟式(堀江家 蔵)

弘前偕行社の上棟式(堀江家 蔵)

旧弘前偕行社の歴史

沿 革

明治31年(1898) 現在の弘前大学構内に師団司令部を開設
明治37年(1904) 弘前偕行社新築移転計画立案
明治40年(1907) 弘前偕行社本館完成
明治41年(1908) 皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)が弘前偕行社にご宿泊
昭和10年(1935) 昭和天皇の弟宮である秩父宮(ちちぶのみや)殿下が歩兵第31連隊第3大隊長に着任
昭和20年(1945) 第2次世界大戦が終結し、日本軍が解体するとともに偕行社も解散
昭和20年(1945) 弘前女子厚生学院校舎として使用
昭和21年(1946) みどり保育園舎として共用
昭和55年(1980) 弘前厚生学院記念館として公開
平成12年(2000) 「県重宝」に指定
平成13年(2001) 「国の重要文化財」に指定(県内98件目)指定対象/建造物1棟、棟札1枚、門柱及び煉瓦塀
平成25年(2013) 大規模な保存修理事業に着手
令和 2年(2020) 一連の保存修理事業等を完了

第8師団と「軍都弘前」

天下に名を馳せる「国宝師団」の創設

 日清戦争の勝利後、日本国内では三国干渉によるロシアへの反発が強まり軍備増強が進められます。
明治30年、本州最北で戦略的にも重要だった青森県弘前に第8師団が創設。
明治期の日本陸軍では、歩兵部隊を主力に、これを支援する砲兵、騎兵、工兵等の各部隊を組み合わせて師団としました。
師団司令部や管下の諸部隊施設は現在の弘前市富田から千年一帯に置かれ、
軍人やその家族の来往者が増加。中心市街地の土手町や元寺町は商業地として、
田園地帯にも住居や飲食店が軒を連ねるなど、弘前は「軍都」として繁栄します。
 明治35年、弘前歩兵第31連隊は対ロシア戦に備え「八甲田雪中行軍」に成功。
この訓練を活かし、日露戦争の「黒溝台会戦」では極寒の厳しい戦況から勝利に導き「国宝師団」と謳われるようになりました。
 その後、昭和20年第2次世界大戦において、師団主力はルソン島の戦いでアメリカ軍や抗日ゲリラ兵に苦しめられ、
なす術なく消耗し、奮戦むなしく終戦を迎えました。

明治から大正時代

陸軍将校たちの華やかな社交場

 日清戦争後の日本は対ロシア戦に備えて陸軍の軍備を拡張、新たに6つの師団を増設します。
第8師団もその一つで、明治31年(1898)に現在の弘前大学構内に師団司令部を開設。
弘前偕行社は当初、師団司令部の一室に置かれ、明治40年(1907)に現在の場所に新築移転しました。
 この地は弘前藩9代藩主津軽寧親(つがるやすちか)の別邸「富田御屋鋪」跡で、弘前市内でも屈指の名庭園でした。
建設の翌年に御宿泊された嘉仁親王(後の大正天皇)は
庭園の悠々とした美しさを賞して「遑止園(こうしえん)」と命名し、松をお手植えされました。
 また、当時建築工事を請け負った堀江佐吉(ほりえさきち)は「旧弘前市立図書館」や「旧第五十九銀行本店本館」、
太宰治の生家としても知られる「斜陽館」なども手がけた津軽を代表する名棟梁です。
堀江佐吉は完成前に病没したため、弘前偕行社が最後の作品となりました。

昭和(戦前)

昭和天皇の実弟もお住まいになった、弘前の栄誉

 昭和10年8月から昭和11年12月まで、
昭和天皇の実弟である秩父宮雍仁(やすひと)親王が弘前歩兵第31連隊第3大隊長として御在隊されました。
弘前に御到着された際は、感激した将校たちが枡形から連隊営門まで整列してお迎えしています。
御在任中は、妻の勢津子(せつこ)妃と御一緒に紺屋町の菊池長之の別邸にお住まいになりました。
 赴任早々に県内一帯で大水害が発生し、秩父宮様は弘前市内だけでなく県内各地の被災地を視察し、
義援金の支援や慰問による救済活動を行っています。
このほか、文化事業や社会慈善事業などに御尽力され民衆と触れ合い、事業の推進に寄与されています。
勢津子妃もまた、病院や施設の慰問や各学校を訪問され青年児童の教育奨励に取り組まれています。
 秩父宮御夫妻の在住は約1年4ヶ月と短期間でしたが、弘前の歴史において欠かすことのできない栄誉です。

昭和(戦後)

愛と奉仕の心をはぐくむ学び舎

 弘前女子厚生学院は、昭和17年(1942)に養護訓導(現在の養護教諭)の養成所として創設しました。
創設者の鳴海康仲氏(なるみやすなか)は、医師として病院経営の他に、
地域の保健衛生・生活改善活動に尽力した青森県の保健医療の先駆者です。
地域の保健福祉分野で、「愛と奉仕」の心によって献身する人材を育成するために学校の拡充を図ります。
 昭和20年(1945)8月に第2次世界大戦が終結し、日本軍が解体すると、弘前偕行社も解散することになります。
管理者を失った弘前偕行社の建物は、戦後すぐに弘前女子厚生学院(現在の弘前厚生学院の前身)へ払い下げされました。
 その後、併設する「みどり保育園」の園舎としても活用され、
将校たちが集った大広間や庭園に響く音も、学生や子どもたちの笑い声へと変わりました。

平成から令和へ

地域の人々が集う現代の社交場

 旧弘前偕行社は校舎や園舎としての利便性を高めるために一部を施しつつ、
弘前厚生学院が長年にわたり大切に保全してきたことで、
明治時代の完成当時とほぼ変わらない様子で保存されています。
偕行社の建物と庭園が一体的に現存しているのは全国でも極めて珍しく、
また、陸軍省営繕(えいぜん)組織による建築意匠の展開を示すものとしても
貴重であるとして平成13年に(2001)に重要文化財指定されました。
 この貴重な文化財を未来へ継承していくために、平成25年(2013)から大規模な保存修理事業等が行われ、
令和2年(2020)からは、明治の建築当初の意匠に復原された建物を公開しています。
 これから旧弘前偕行社は、建物や庭園の公開活用を行い地域のまちづくりや観光資源、
知識や体験を共有するコミュニティの場となって動態活用を推進します。